上峰町役場の親水広場と北側の植え込みに、美しいバラが咲いているのをご存じでしょうか。「アンネのバラ」という品種で、あのアンネ・フランクの父オットー・フランク氏によりアンネの理想を広く世界に伝えるための象徴として誕生しました。このバラを上峰町に伝え、守る富永さん親子の取り組みをご紹介します。
壮絶な戦争体験を経て
『アンネの日記』の作者であるアンネ・フランクの思いを受け継ぎ、愛と平和の象徴とされる「アンネのバラ」を上峰町に広めた富永重盛(しげもり)さん。戦火の中で青春時代を過ごし、平和への強い想いを胸にアンネのバラを育て、昨年1月に97歳の人生に幕を閉じました。
大正13年に鹿児島県で生を受けた重盛さんは、17歳で海軍を志願すると福岡県の三池港から駆逐艦でニューブリテン島(現在のパプアニューギニア)のラバウルに着任し、そこで零戦などのエンジンや機体の整備を担当していました。戦況の悪化に伴い、昭和18年には米軍の攻撃を受けて被弾し、生死をさまよう大怪我をしました。
終戦後はオーストラリア軍の捕虜となり昭和23年にようやく本土に復員することができました。
復員後は鹿児島県で農家をしていましたが、警察予備隊の創設に合わせて入隊し、車両検査官として勤務。
目達原に駐屯していた時に結婚したことが縁で、息子の幸広さんが幼稚園に入る少し前から上峰町に腰を落ち着け、穏やかな日々を過ごしていました。
幸広さんは「父は優しい性格で、大変多趣味でした。釣りに植木、大正琴、さらには皿回しと忙しく、家族で出かけたことも数えるほどしかありません。広い庭にはたくさんの木々がありましたが、京都の方から分けてもらったアンネのバラはとりわけ熱心に手をかけていました」と振り返ります。
3年ほどかけて増やしたバラを、重盛さんは平成12年に役場に植栽してくださり、来庁者の目を楽しませてくれました。
平和への思いを親子で受け継ぐ
生前、戦時中の様子や平和への思いを話していたという重盛さん。
幸広さんは「父は常々、〝戦争になったら若い者から死んでしまう、だから絶対に戦争に行くな。若い人を戦争に出すようなことをしてはいけない〟と言っていました。〝戦争をしたくてやっている人は一人もいないはず。なんらかのボタンのかけ違いなどで、若い人たちが命を落とすようなことがあってはいけない〟と。だから平和への想いが込められたアンネのバラへの思いが強かったのでしょう」としのびます。
高齢になった重盛さんに代わり、幸広さんは4〜5年前から自宅の庭木の手入れを始めました。
植木の中でも病気にかかりやすいバラは手入れが難しく、最初は苦心しましたが、大事なバラをなんとか守ろうと勉強を重ね、今では年に3回程美しい姿を見せています。
そこで今回、役場のバラの手入れを申し出てくださいました。
「きれいなバラを見て皆さんの気持ちが優しくなったら嬉しいです。父も多くの人にバラを見て、心を落ち着けてほしいと願い、役場に植えたのだと思います」とハサミを握り笑顔を輝かせます。
次の開花は9〜10月頃とのことですので、ぜひ美しい色合いのアンネのバラをご覧ください。