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町民だよりかみみね5月号特集

最終更新日:

新展開!鎮西山の山城跡が判明!

令和3年12月から鎮西山で本格的に行われた発掘調査で、頂上とその周辺に山城があったことが判明してきました。「山城」がどんなものか。発掘調査で分かったこと。そして「為朝伝説」との関連についてご紹介します。

発掘調査で分かったこと


標高202mの鎮西山の頂上とその周辺には、敵の進入を防ぐためにつくられた土塁や横堀などの跡が残っていたため、以前から戦国時代(今から約500~600年前)の山城があったことは分かっていました。
今回の発掘調査は、 鎮西山山頂の公園再整備事業に伴うものです。
発掘調査は、 主に副郭と主郭・副郭の周りをめぐる帯曲輪部分を対象に、 令和3年12月21日から令和4年3月22日の期間で行いました。

  • 町の風景
  • 見つかった遺構
  • 副郭では掘立柱建物跡を発見しま した。赤い色が付いている部分が柱穴 の跡で、等間隔に並んでいます。
  • 帯曲輪の調査では、 切岸(斜面)、 横堀(中央の窪み)、 土塁(右の盛土)を発見しました。
  • 主に平安時代の終わりから鎌倉時代(今から約800~900年前)に国内で製作された土師器という土器や、中国でつくられた白磁・青磁の碗・皿の破片などが出土しました。
  • 山城のイメージ図

山城とは

戦国時代に、小高い山を利用してつくった城を「山城」と呼びます。山城は、山を削ったり、溝を掘ったり、土を盛るなど、地形を生かしてつくります。

今回の調査を終えて

今回の発掘調査では、戦国時代の遺物は発見されていませんが、近隣地域の山沿いでも戦国時代の山城跡がいくつも発見されています。それらの山城跡と鎮西山城跡は、城の造りかたの特徴が似ているので、戦国時代の山城だと考えられています。

今後も主郭や副郭の発掘調査を行い、いつ頃に築城されたのかを調べていきます。

また、出土した白磁や青磁の碗などは源為朝の時代とも重なるため、「為朝伝説」につながっていくかもしれません。今後の発掘調査に期待が高まります。

問い合わせ/教育委員会 文化課 ☎︎52−4934


鎮西山と源為朝

鎮西山に山城を築いたといわれる平安時代末期の武将、源為朝。現在、上峰町では《源為朝プロジェクト》と題し、町を挙げて「為朝伝説」を発信しています。

【源為朝】1139〜117?年(没年不詳)
傍若無人の暴れ者で、13歳の時に都から九州へ流された。 その後自ら「鎮西八郎」と名乗り、15歳で九州を平定。数々の伝説を残している。

  • 為朝伝説

  • 『肥陽軍記』に記された屋形原


      江戸時代に書かれた『肥陽軍記』には「為朝が東肥前に館を構えていたことから、その一帯を屋形原と呼ぶようになった。そして館の北の山に城を築いた」といった記述があります。

      肥前国東部を示す「東肥前」と、現在も上峰町に残る「屋形原」の地名から、為朝の伝説につながったと考えられています。


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